スピーカーで音を鳴らせば周囲に向かって音は広がっていく。一方でイヤホンは利用者の耳を塞いで機能するために、音は周囲に広がらず、鳴っている音が聞こえるのは基本的に本人だけとなる。このことは我々の直感的な理解に即していて、何も不思議を感じることはないだろう。だが、加古と千葉が研究開発しているのは、スピーカーのように開放された状態でありながら、音が周囲に広がることなく利用者にだけ届く、つまり耳を塞ぐことなく周囲への音漏れがないイヤホンの設計技術だ。
「私たちコンピュータ&データサイエンス研究所では、これまで音声の研究を進めてきた中で、自分にだけ聴きたい音が聞こえる空間を創造するPSZ技術の研究を深めてきました。
現在、私たちが携わっているのは、PSZを構成する技術の一つであるスポット再生技術のウェアラブル版、つまり自分にだけ聴きたい音が聴こえて周囲には音漏れしないオープンイヤー型イヤホンで、すでにグループ内の事業会社から製品化もされています」(千葉)
「PSZのスポット再生技術をイヤホン向けに開発してみないかと2021年に上司から声をかけられました。PSZは当時航空機のビジネスクラスのようなスペースで自分にだけ音が聴こえる空間をつくるために、片耳で大きなスピーカーを2つと信号処理を利用して音波を打ち消し合って実現していた技術です。それを片耳1つのスピーカーのみで実現できるのかという不安はありました。ただ『面白そうだな』という気持ちも強くて、不安と楽しさが半々でしたね」(加古)
自分だけの音空間
音漏れしないオープンイヤー型
イヤホンで新しい世界を
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コンピュータ&データサイエンス研究所
加古 達也、千葉 大将
自分だけの音空間
音漏れしないオープンイヤー型
イヤホンで新しい世界を
これまで音声音響信号処理の研究を行ってきたコンピュータ&データサイエンス研究所では、周囲に音がもれず、周囲の騒音を打ち消しながら自分がほしい音だけが適切に届き、実空間と仮想空間の音を融合するPSZ(Personalized Sound Zone)技術を追究してきた。このPSZを構成する技術の一つである、周囲に自分の音が漏れないスポット再生技術は、開放的でありながら、周囲に自分の音が漏れない新しい音空間の創出を可能とし、音に関連するサービスの進化に大きな可能性を秘めている。
今回、加古達也と千葉大将はイヤホンでのPSZ構築に挑戦。その過程を見ていきたい。
01.音漏れがないオープンイヤー型イヤホンをつくる!
02.体験したことのないスピード感で
音は空気の振動による波で広がっていくため、逆位相の波形(音の波形の山・谷が全く逆になった波形)の音波を重ねることで、互いに打ち消し合ってその波(音)は消失する。PSZのスポット再生技術はその原理を利用し、空間に漏れる音波に対して、その逆位相の音波を放射し干渉させることで、音漏れの音波を打ち消す技術だ。今回のイヤホンでも、その技術が小さなスペースに応用されている。
「これまで長く音声音響信号処理の研究をしてきましたが、音響ハードウェアの設計は初めてでしたので試行錯誤の連続でした」と加古は振り返る。しかもこのプロジェクトは、最初から近い将来の製品化を見据えてのもの。そういう点でも従来の研究活動とは違ったという。
「これまでは5年後、10年後の実用化をめざした技術の研究テーマを扱っており、まずは学会で発表しようという感覚で研究に取り組んでいました。しかし今回は、スケジュールが明確に決まっており、さらに初めてのハードウェア製作です。体験したことのないスピード感と領域で、なかなかエキサイティングな経験ができました」(加古)
千葉もチャレンジを振り返り、同様の思い出を口にする。
「決められた目標時期に向かって、例えば実験をするにしても自分たちで3Dプリンタを使ってイヤホンのモデルを印刷し、そこにハンダ付けをしてと、これまであまり経験のなかった作業の繰り返しで大変でした。けど、自分たちの手でつくって、測定して、結果を見て……、という繰り返しをしているうちに、さまざまな共通性というか理論みたいなものが見えてきて、最終的な完成につながったのかなという感覚もあります。頭の中で考えていた理論が形を得て確認されていく過程に立ち会えているような感覚がありましたね」(千葉)
03.独立したスピーカーの機能を
小さなイヤホンの中へ
従来のPSZでは音を出すスピーカーと逆位相再生用のスピーカーを組み合わせて使用されてきましたが、耳元という限られた場所で機能させるには1つのイヤホンでスポット再生を生み出さなければならない。いかにしてその壁を乗り越えるか。加古は、アイデアによって打破できたと話す。
「当たり前ですけどイヤホンの周りに複数のスピーカーはつけられないわけです。スピーカは振動板が揺れることで空気中に波をつくっています。この振動板の背面からは正面とは逆位相の音波が放射されます。ならばスピーカーを覆う箱に穴を開けて、そこから逆位相の音波を出そうという発想をしてみました。これがブレイクスルーだったかなと思います。そこからはどの位置にどのような角度で穴を開ければ良いのか、さまざまなパターンを3Dプリンタで印刷しては試して検証する日々でした。やはり同じ波面で打ち消し合わなければいけないのだから、目的の音と同じ方向が良いのではないかと無理やり近くに穴を開けてみたり……、いろいろと試行錯誤しました」(加古)
「開発はコロナで出勤も制限される最中でしたから、加古さんと上手く役割分担しながら、どちらかが印刷して、どちらかがハンダ付けをして試して、測定して……と、どの位置に穴を開けるとどのぐらい音が漏れるかなど、30台、40台とどんどん試していきましたね。そうしながら理論を確認しつつ、音質や装着感にもこだわりながら、スピード感をもって完成させられたのは達成感をおぼえました」(千葉)
この耳を塞がず音漏れしないイヤホン設計を使ったイヤホンは、NTTグループ会社から有線式と無線式のものが製品化された。このイヤホン設計を使った製品はどのような利用シーンが想定されるのだろうか。
「今回のイヤホンによって、音が多重に聴こえる音空間を創出できるようになりました。つまり、直接耳に届く実世界の周囲の音とともに、イヤホンから再生される仮想世界の音も聞くことができるため、例えば何らかのナビゲーションがあたかも目の前から聞こえるなど、さまざまな情報を付与する新たな価値提供をめざした研究開発などをこれから行っていく予定です」(加古)
PROFILE
- 加古 達也
- 2011年入社。環境、資金、人材など、NTT研究所には潤沢なリソースがあることで、技術をスピーディーに社会に還元できる可能性があると話す。
- 千葉 大将
- 2019年入社(中途)。2021年に今回の研究テーマがスタートし、2022年には事業会社から製品化されたスピード感がコンピュータ&データサイエンス研究所の良さだと感じている。
※記事本文中の研究所名や社員の所属組織などは取材時のものであり、
旧研究所名の場合がございます。